今 週 の レ シ ピ

・アドバンスクラスのメニューより

●鶏の唐揚げ    294kcal.  塩分1.5g

鶏の唐揚げ [材料]  -6人分-

・鶏骨付き1個50を12個
  塩小さじ1
◎漬け汁
  醤油(しょうゆ)大さじ3
  砂糖大さじ2
  酒大さじ2
◎薬味
  ニンニク1片
  生姜(しょうが)1片
  日本葱(にほんねぎ)10a
  唐辛子(とうがらし)1本
・片栗粉(かたくりこ)大さじ6
・揚げ油3カップ

[作り方]

    鶏肉の漬け込み
  1. 鶏骨付きはぶつ切りにし、塩をすりこむ。
  2. 漬け汁に、みじん切りにした薬味を加え、1を3時間〜半日位漬け込む。
  3. 汁気と薬味をよくとり、片栗粉をまぶす。
  4. 150℃位の油でゆっくり揚げ、一度油から出す。
  5. 200℃位に熱した油に、もう一度4を入れ、カリッと揚げる。
ポイントはここ
ちょっと一言
  • 鶏肉は好みで骨付き骨なし、どちらでもよいでしょう。漬け込む時間、油で揚げる時間ともに骨付きはすこし長く、骨なしはそれより短くてよいでしょう。下味付け、火の通りを考えると、骨なしの方が短時間でできますが、骨付きには味の深みがあり、時間がかかるだけのことはあります。
  • 時間があったら、薬味の材料をみじん切りにして混ぜ合わせ、1時間から半日位おいて、漬け汁の中に加えてよく混ぜます。薬味が一つの新しい香りになり、唐揚げの味をよくしてくれます。

    薬味のみじん切り 混ぜてしばらくおく

≪組み合わせメニュー≫
    ◎豆腐とほうれん草の中華風スープ
    ◎レタスの和(あ)え物
    ◎白玉団子のシロップがけ
【野口料理学園】
塩 ひ と つ ま み

■ジューンブライド

日曜日、生徒さんの結婚式がありました。1年コースを終えて、お医者さんに嫁いでいきましたが、披露宴のさいご、新郎新婦が参列者一人一人に差し上げるマドレーヌを自分で焼きたいと申し出がありました。

前日の土曜日、職場のお友達(やはり生徒さん)と二人でやってきました。業務用オーブンでマドレーヌを170個作っては1個1個袋につめ、それに手書きのメッセージをなかに入れました。途中からはご主人も合流し、袋詰めの手伝いをしていきました。友情と二人の仲睦まじい光景に、こちらも幸せな気分をもらいました。

年に何人かは、ウエディングケーキや引き出物につかうお菓子を自分の手で焼きたいという生徒さんがいます。以前は、この種の会場への持ち込みはほとんど禁止でした。最近はむしろそうした式場のほうがめずらしい。それだけお客さんの獲得競争がきびしく、そんなことは言っていたら、よその式場にとられてしまうのでしょう。

式場が用意する超大型のウエディングケーキより、小さくてもいいから自分で作ったケーキを披露宴に飾り、参列者に一口なりとも食べてもらいたい。そんな願望をもつ花嫁さんが増えました。20年ほど前、有名な芸能人同士の挙式が流行の走りらしいです。

これまでに、結納のときの食事を全部自分で料理した生徒さんがいました。自宅に仲人さんと相手の家族をお迎えし、和食で接待したということです。なかなかできることではありません。

結婚披露宴の会食まで作ったという人は、さすがにまだいません。ひとりの例外を除いては。例外は前園長、わたしの母です。戦後まもない昭和23年(1948年)でした。料理教室を開く前のことです。そのくだりを、母が著した『味わう人生』の中から抜粋してみます。だれもやりたがらない理由がわかります。

結婚式
暮もおしせまって野口が来甲し、式場は穴切神社と決まりました。なかなか披露宴の場所も見つからないので社務所をお借りすることになり、神主様が父の友人だったので台所から衣装の着付けをする部屋まで拝借出来ました。料理は全部自分で作る事にしました。二人で大分闇の砂糖やバターをさがし、煮物の野菜は薬袋様で全部用意してくれました。野口は栗もさがし、椀種にする肉団子はキジを自分の山からとって来る事にしました。重詰の中は鮭の塩やき、栗きんとん、紅白羹、錦卵、矢羽根ばす、筑前煮、結び昆布、引き物はシュークリーム四ヶに中央には祝結婚とデコレーションしたスポンジケーキ、キャンデーを八本、四角の箱に綺麗に詰め、リボンをかけて五十個作りました。

一月一日から料理作りを始め、甲府からいく子叔母様に手伝いに来て頂き、徹夜までして作り上げたので、全く花嫁は疲れてしまい、あごのところにはれ物まで出来てしまいました。リヤカーを借り、弟と二人の従弟が豊富から甲府の穴切神社まで運んでくれました。当日私は花嫁衣裳の着付けをしてもらいながらも吸物の味加減や、煮物の盛り付けなど二階まで上がって聞きに来る妹に教えなければならず、鬘(かつら)を取ったりつけたりして大変でした。

十二時から崎田先生御夫妻の仲人により神前結婚の式をあげましたが、後の披露宴の事が何かと心配で厳粛であるべき気持ちが全く落ちつかぬまま終ってしまいました。近くの写真屋に行き記念すべき写真をうつしたわけですが、準備に疲れ果てた花嫁姿は誰にも見せられないものにとれてしまいました。当時にしては野口の力でお酒もたくさん用意出来ました。私の手料理もあって五十名のお客様は夕方まで楽しく祝って下さいました。(後略)

昭和23年といえば、まだまだ物の乏しい時代でした。そんな中、母はいろいろな方々の協力をいただいて、披露宴の料理から引き出物まで全部を手作りしました。いくら料理好きとはいえ、24歳の花嫁が50名分の料理+引き出物まで作ってしまうというのは、材料・道具が豊富な現在でもちょっと(どころか)、たいへんな重労働です。

じつは当時、母は高等女学校の教師でした。敗戦後の疎開先(豊富村)の分校で、卒業式を手作りの料理やケーキで祝ってあげていました。というのも、戦中から戦後にかけて学生たちは「学校工場」の毎日で、勉強もろくにしていませんでした。そうした彼女たちをなんとか励まし、混沌とした社会へ明るく送り出そうと、精一杯のプレゼントをしたのです。

それが評判になり、村で結婚式があると頼まれるようになりました。今から考えると、かなりムボウなような気がしますが、頑張り屋の母らしい行動力です。で、当然(?)自分の結婚式ですから、自力でやり遂げました。

ところが、文中にもある通り、無理がたたって人前に、それも一世一代のおめでたい席にとても出られないご面相になってしまった。ことあるごとに母はそのことを悔やんでいました。ジョーダンにも、結婚式の料理を自分で作ったらなんて勧められなかったのです。そこで私の場合、母の忠告にしたがってケーキだけにし、あとは助手さんたちに作ってもらったのは言うまでもありません。


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