今週のレシピ |
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・ブライダルクラス(10月第3週)のメニューより● 豆腐蒸蛋 (豆腐と卵の蒸し物) ● 133kcal. 塩分 0.9g (醤油をのぞく)
[材料] -6人分-
・豆腐 400g(約1丁) ・卵 2個 ・日本葱 10a ・干し椎茸 3枚 ・豚ひき肉 80g ◎B 塩 小さじ1 サラダ油 大さじ1 うま味調味料 少々 ◎仕上げ 紅生姜(べにしょうが) 醤油
[作り方]
- 豆腐…ふきんに包み、重石(おもし)をかけて水気をしぼる。
日本葱…みじん切りにする。
干し椎茸…水に半日位つけて充分もどし、みじん切りにする。- ボールにAを入れ、よく混ぜ合わせ、Bの調味料を加え、さらによく混ぜる。
- 食卓に供する丼に2を入れ、よく蒸気の上がっている中華セイロで20分位蒸す。
- 蒸し上がったものに、紅生姜のせん切りを飾り、醤油を添えてすすめる。
ポイントはここ
- 豆腐の大きさは、お店によってまちまちです。重さを確かめて買ってください。「500g」位のものを買った場合、400g位を使います。残り100g分は、朝の味噌汁の具にしてはいかがでしょうか。
- 豆腐の水切り方法はさまざまです。一般的にはふきんに包み、重石をかけて水気をとりますが、あまり一度に重いものをのせますと、豆腐のうま味まで流れ出してしまいます。1時間位かけてほしいです。使う時、もう一度乾いたふきんに包みなおしてまわりの水分を吸いとらせると、さっぱりします。
「ピチット」というのをご存知ですか? 魚や肉の水っぽさや生臭さをとり、素材のうま味を引き出すシートです。私は、豆腐の水切りにこのピチットをよく使います。豆腐を包んで、豆腐の入っていたパックにもどし冷蔵庫に入れておきます。半日位すると、豆腐はサッパリします。時間があまりなかったり、豆腐を細かくしてから調理する場合は、1〜2a角に切ってシートにはさんでおくという方法もあります。- 材料と調味料を混ぜ合わせる時には、きれいに洗った「手」を、泡立て器のように使いましょう。どのくらい豆腐が細かくなったか、また他の材料や調味料の混ざり具合も、この「手」で知ることができます。
- 食卓に出せる「丼」に入れて蒸します。丼に表面が平らになるよう入れますと、中心部分が厚く、丼のふちが薄くなります。全体の火の通りをそろえるために、ふちを少し高く、中心を少しへこませて、全体の厚みをそろえるようにします。
- 火加減は強火、蒸気をどんどん上げて蒸してください。
- 蒸し上がりは竹串で中心を刺し、清(す)んだ汁が出てくればOKです。ドロドロ濁っていたら、まだです。
- そのまま食べてもおいしいですが、少しだけ醤油をかけると一層おいしくなります。
ちょっと一言 ≪組み合わせメニュー≫
- 朝夕、だいぶ冷え込むようになりました。台所で蒸し器から上がる蒸気が、恋しい季節ですネ。でも、蒸し器に湯を沸かし20分間蒸す時間がない時は、電子レンジでも調理できます。ただし、平らな器に材料を入れ、ラップをしてください。4分かけて、位置をかえ、さらに4分でできあがりです。時間が短縮できますが、ほんのちょっと味が落ちるような気もします…。
◎青椒肉糸(牛肉とピーマンの炒め物)
◎拌三糸(春雨・ハム・錦糸玉子の和え物)
【野口料理学園】
塩ひとつまみ ■味わう人生 (その1)
- 当HP“家庭料理が一番!”を立ち上げてから、今週でちょうど50回になり ます。また本年は、野口料理学園がその前身の教室時代からかぞえて創立50周年 にもあたります。50の50と単純な語呂合わせになりますが、これを機に学園創 立の経緯、当時の時代背景などをふりかえってみます。
戦後まもなくから今日まで、食料事情や「食」に対する考え方はおどろくほど変わ りました。当時からは想像もできない大変化でしょう。おなじように現代からみると、 とりわけに若い人にとっては、当時を想像するのは相当むずかしいことであるにち がいありません。
創立者である野口富子はその辺の事情を、自著『味わう人生』(昭和62年上梓) の中で語っていますが、同書は非売品のこともあって、ごく限られた方にしか配布 されておりません。そこで『塩ひとつまみ』では、数回にわたって同書から関連個所 を抜粋、みなさんにご紹介いたします。「食」を考えるにおいて、多少なりとも参考 になれば幸いです。
―料理教室発展への道―
・料理教室の起り(一人の生徒から)
昭和二十六年の秋、皆戦後のどん底から立ち上がり、何とかして元の日本に、そしてま た我が家の幸せをとりもどさなくてはと懸命に努力している頃でした。
私も二児の母として、また主人と、実家の父と共に暮す事の出来る幸福をやっと手にし ていました。そんなある日、甲府高女時代の教え子が訪れ、私に料理を教えてほしいと の事でした。
当時はまだ材料も思うように手に入らず大変でしたが、その生徒と共に苦労して材料を さがし、工夫して珍しい美味しい料理を作り上げました。生徒と我が家の分とを分け合 い、味わう楽しさは非常に感激を覚えました。
焼け跡に建てられた小さな台所で一人の生徒が二人にまたそれが四人となり一人ずつ友 達を連れて来ますので、たちまち生徒数は三十名となってしまいました。父の力で増築 し、私の工夫で当時としては合理的な調理台を一台近所の家具屋さんに作ってもらいま した。(これは我が家の宝として今も書斎の仕事台となっています。)
教室らしくなった台所で生徒と一緒にコンロに炭火をおこす所から始め、父や主人が帰 宅するまでには、たくさんの料理が出来上がり、それが、そのまま夕食となります。生 徒ももちろんお重箱に一杯家族へのお土産を持って帰るというシステムでした。
家庭にいながら、子供の養育にも事欠かず出来る仕事、しかも料理を家族と共に楽しん で食べる事の喜びが味わえる仕事、女性としてこんなに幸せな仕事は他にないと信じ、 一心に料理の研究に努め、新しいメニューを工夫し、技術向上に努力する毎日でした。 二十七年の春からは週に四回一日十名ずつ四十名の生徒を教えるようになりました。
その頃から女性が働く町工場も出来、教育の一端として料理講習を行うようになりました。 自転車の前後に材料や料理道具を付け、助手一人連れて会場まで行ったものでした。
アメリカの古いストッキングを解し、その糸を何本かより合せ、染めてセーターに編み 上げるというような工場や、製糸工場などへも毎週講習に行きました。
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