今週のレシピ |
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・ブライダルクラス(11月第2週)のメニューより● 芙蓉蟹(カニ玉) ● 193kcal. 塩分1.8g
[材料] -6人分-
・卵 5個 ◎A カニ(缶) 40g 日本葱 1本(20g) 筍(たけのこ) 30g ◎B 塩 小さじ1 うま味調味料 少々 ・炒め油 大さじ4 ◎甘酢あん 中華出汁(だし) 1/2カップ 醤油 大さじ1 1/2 砂糖 大さじ1 1/2 酢 大さじ1/2 片栗粉 小さじ1
[作り方]
- 卵…割りほぐしておく。
カニ…軟骨を取りのぞいて、身をほぐしておく。
日本葱…みじん切りにする。
筍…小さめの短冊切りにする。- 割りほぐした卵の中にA、Bを加えてよく混ぜる。
- 中華鍋に油を熱し、一度に2をあけ、フライ返しで炒める。半熟程度になったら、フライ返しで返しながら6つに分けて仕上げ、大皿に盛る。
- 甘酢あんの調味料を鍋に合わせ、火にかけて煮立て、3の玉子にかける。
ポイントはここ
- 「芙蓉蟹」は芙蓉(ふよう)の花のように仕上げた中国のカニ料理で、日本では「カニの入った玉子料理」から「カニ玉」と呼ばれ親しまれています。
- 具のカニは、どんな形のもの(缶詰、冷凍、殻付きのもの等)でも軟骨を取りのぞき、軽くほぐしておきます。
「カニ風味かまぼこ」や細かく切ったハム、ソーセージを加えると、手軽に「カニ玉風」ができます。- カニ以外の具として、日本葱のみじん切りはかならず加えたいですネ。他に筍、椎茸の細かく切ったものもいかがですか?
- 卵液の味付けの「塩」を、くれぐれもお忘れなく!
- 中華鍋は空で熱し、炒め用油を少し多めに加えて熱します。卵液を2〜3滴落とし、音を立てて火が通ったら、一度に全部を流し入れます。卵液のまわりが盛り上がるように火が通りはじめたら、フライ返しで大きく静かに、火が通っている部分をまだ火が通っていない卵液の中に混ぜるようにしていきます。
卵液をそのままにしておきますと、焼き上がりのふくらみが悪く、また細かくかき混ぜすぎると、ふっくら仕上がりません。- 半熟程度になったら6人分になるように、だいたい 1/6 位ずつ返してまとめます。火が通りすぎますと、まとまりにくくなりますので注意してください。
まわりが焼ける 焼けたところを中へ 鍋の中で分ける
- 焼き加減は、卵の持ち味を失わないように、“ふっくらと”が大切です。
- 甘酢あんは、卵焼きのやわらかい持ち味を引き立てるように、薄味に、とろみも薄めに作ります。
ちょっと一言
- 中華鍋の中で焼きながら人数分に分けないで、大きくふっくら焼き上げて、盛り付けてから皿の上で切り分けてもよいでしょう。
- 濃度の薄い甘酢あんをかけますが、深皿よりも平皿に盛ったほうが、カニ玉の厚みが見えて引き立ちます。
- 現在はお弁当箱の密閉度がたいへんよいので、カニ玉に薄い甘酢あんをかけて持っていっても、汁気がしみだす心配はないでしょう。私が中学・高校生の頃は、ゴムのパッキングのおかず入れでよく汁がにじんできました。そこでこの「カニ玉」(というよりは「ハム玉」でしたが)の味付けを、塩だけでなく、少し醤油や砂糖も加えて焼いて持っていきました。母が何日も講習会で留守の時は、父と弟の分も合わせて3個の弁当を作りましたが、この卵料理は、私の得意なものでした。でも時々朝あわてて、調味料を忘れ、まさに味気ない昼食だったこともありました。(父が教諭をしていた同じ高校に通学していましたので、廊下ですれ違う時、「塩わすれたな!」と言われたことを思い出します。)
≪組み合わせメニュー≫
◎干しエビと白菜のスープ
◎春菊のピーナッツ和(あ)え
◎モヤシと豆腐の炒め物
【野口料理学園】
塩ひとつまみ
■味わう人生 (その5) ―料理教室発展への道―
・小さい料理教室での思い出(つづき)
この二階座敷は八畳に二間の床の間付きの狭い物でしたが、主人のお気に入りの場所でした。体育関係の会議の後は良くお客様をお連れし、私の手料理で夜遅くまで楽しい集いの場となる事がありました。
メンバーはいつも、当時山日社長の野口二郎様、計理士の谷口梅吉様、巨摩高校の校長田口政義様、県議会議員の五味洋様などでした。皆様大酒豪で姓に口が付いていますので当時、五口組という名がついていた程です。私も若く疲れる事を知らず好きな料理作りで皆様が喜んで下さるならと一生懸命おもてなししました。この教室での宴会は、評判となり、一高や工業の先生方を始め多くの体育人の方々が集まり、いつも 団欒の場として使われました。当時一高のバスケット部は非常に優秀で夏休みの合宿訓練も行われました。生徒の昼食の差入れを主人から頼まれ、大釜に二升三升と御飯を炊き、カレーやハヤシを作り届けましたが、いつも足りないという事で、その量は毎回多くなるので驚きました。
昭和三十四年八月の台風七号の折、この教室の大屋根がその形のままに、木の葉のように舞い上って破損せずに五、六軒先きの道路に落下した事も大きな思い出の一つです。
屋根が飛んでしまったのでもちろん周囲の壁は全部落ち、窓ガラスは壊れ、どしゃ降りの雨の中で家中水浸し、大変な騒ぎでした。ちょうどお盆で東京の弟一家が泊っていて鴨居にかけてあった背広や子供の洋服まで屋根と一緒にとんでしまいさんざんでした。
その時主人は、インターハイ夏季大会に一高のバスケット部の生徒を連れて熊本に行っており、この騒ぎを全く知りませんでした。
生徒を連れて東海道線から身延線に乗りかえましたが、身延線は途中寸断されており、何ヶ所かバス連絡の乗りつぎでやっと甲府駅にたどり着きました。駅前で知人に会い、野口料理教室の屋根が吹き上げられてしまった事を聞き、驚いて急いで帰宅しました。
多くの方々の御力添えで十日程で全く元通りに建てなおされ、授業も出来るようになりました。
自分が家にいさえすれば、家族に恐ろしい思いをさせなかったのにという責任感もあり、復興に対する主人の働き振りは素晴らしいものでした。事ある毎に頼もしく思っておりましたが、その実行力の偉大さには心から尊敬の念を持ちました。
≪ 野口富子『味わう人生』(昭和62年上梓)≫より
【私からのコメント】
父は秩父の山奥に生まれ、村から初めて熊谷中学に合格したとのこと。その中学へは秩父市の料亭に下宿して通学、それは父の姉の一人の嫁ぎ先です。父はこの料亭で味覚を磨き、「日本料理の味」にはうるさかったのです。母は女子大時代、洋風料理を熱心に勉強していました。結婚当初、父はその料理を珍しがり、とても喜んだようですが、母の日本料理の味には満足しなかったようです。母が東京へ勉強に行くことを心から応援していました。母の腕が上がると、早速お客様を連れてきました。母の料理を自慢しながら、お友だちと酒を酌み交わすのを最上の喜びにしていました。
母は仕事を広げ、料理教室を山梨県公認の学園にしましたが、常に「家庭料理」の指導に徹し、そのすばらしさを教えながら実践していました。父の酒の肴や食事を忙しい中でも、できる限り自分で作る努力をしていたと思います。父のために料理の腕を磨いたことを、母は料理教室へと大きく発展させました。いま私も家族のために料理を作りながら、母の作り上げた「家庭料理」のすばらしさを伝えていきたいと思っています。昭和34年8月14日の朝、山梨県は台風7号の直撃を受けました。前日から降り続いていた雨は激しさを増し、さらに風は小学校5年生の私にとって初めて経験する強風(甲府市制100年を記念して作られた記録集にこの朝の瞬間最大風速は40メートルとあり、今日までその記録は破られていません)。その風にのり、本当に「アッ」という間、緑色のトタン屋根(その頃では瓦屋根がほとんどでしたが、教室のため天井を高く作った2階建ての上、柱が少ないので軽い素材を使っていました)は、まるで飛行機のように(近所の見ていた人の話)飛んでいったのです。屋根だけでなく天井も蛍光灯の照明器具も、母の言うように叔父の背広も一緒に飛んでいきました(不思議なことに、照明器具は壊れず道路に軟着陸、あとでその器具は使えたのです)。その直前、私は、ガラス戸のすき間から吹き込んでくる雨水を雑巾で夢中で拭いていました。祖父の、「屋根が!」の声に顔を上げると、空が見えました。
母から、「子供は危ないから下にいなさい」と言われたのだと思います。それから1時間くらい、子供部屋で風がおさまるまで、ただ怖くて震えて泣いていたと思います。「お腹がすいては何もできない。朝ごはんを食べてから片付けよう」と母に言われ、私はその頃ではまだ珍しかった「電気釜」のふたを開けました。ごはんはまだ炊けていませんでした。強風のため停電だったのです。甲府はお盆の14日、仏壇に「安部川餅」をお供えします。もちろん、家族もやわらかい餅に黒蜜と黄粉(きなこ)をつけていただきます。その年も近所の和菓子屋さんに頼んでおいた餅は前日に届いていましたので、それを朝食替りにしました。風がおさまり、近所の方々や生徒さんも手伝いに来てくださり、それは心強く、子供心にもありがたいなと思いました。
この台風での教訓は、「停電になったら電気釜は役に立たない」。したがって、私は今でも厚手の鍋で「ごはん」を炊くことを授業で何度も取り上げています。火加減さえ覚えておけば、電気やガスのライフラインが切れても、あわてることはありません。そんなことはあって欲しくありませんが…
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