今週のレシピ


◇忙しい年の瀬に、電子レンジを使ったスピードメニューはいかがですか。

● 焼豚 (電子レンジを使って)    66kcal. 塩分1.3g (タレを全部含む)

焼豚の写真 [材料]  -6人分-

・豚もも肉200g
  塩小さじ1/2
◎漬け汁
  醤油大さじ3
  酒大さじ1
  砂糖大さじ1
  食紅小さじ1/3
  ニンニク1片
  生姜(しょうが)1片
  日本葱5a位
◎タレ
  漬け汁
  焼き汁
  片栗粉小さじ1
  水小さじ1
・さらし葱1/2本分

  [作り方]

  1. 豚もも肉は、塩をすり込み10分位おく。
  2. ニンニク・生姜・日本葱をみじん切りにし、調味料と合わせて漬け汁をつくる。
  3. 2に1を入れ、3〜4時間から半日位漬ける。
  4. 平皿に肉をのせ、4分間電子レンジにかける。
  5. 一度とり出して、漬け汁大さじ3〜4を肉にかけ、さらに3分間電子レンジにかける。
  6. 肉を別皿にとり、冷ます。
  7. 電子レンジにかけた皿に、漬け汁の残りと水で溶(と)いた片栗粉を加え、よく混ぜ、1分30秒電子レンジにかけ、とり出してよく混ぜ、タレにする。
  8. 肉を薄切りにし、皿にならべ、中央にさらし葱を飾り、別皿でタレを添える。

ポイントはここ

    豚肉の形の写真
  • 豚もも肉は4〜5a角、12〜15a長さ位の200〜250gの長細いかたまりを用意します。電子レンジにかける時間は、同じ重さのかたまりでも、形によって異なりますので、注意してください。
  • 漬け込む時間は、少なくとも3時間は必要です。夜、寝る前に漬け込んで朝食のとき、午前中に漬け込んだら、夕食のときくらいが目安です。
  • 漬け込むタレに加える食紅は、粉末のままを使います。赤くきれいな色に仕上げるには、小さじ1/3くらいは必要です。 レンジにかけた後の写真
  • 電子レンジにかける時間は、500wのもので4分+3分で充分。600wなら3分+3分でよいでしょう。
  • 中華鍋で焼く代わりに電子レンジにかけるのですから、ラップはいりません。
  • 電子レンジから出してすぐ切りますと、肉汁が流れ出しますし、またきれいな切り口になりません。充分に熱が抜けてから切ってください。
  • 皿に残っている汁に漬け汁の残りを加え、水溶きの片栗粉も加えてよく混ぜ、1分30秒電子レンジにかけ、とり出してまたよく混ぜます。これで、タレができます。
  • 薬味として日本葱のせん切りを添えてみました。5a長さに切り、まわりの白い薄い部分をせん切りにし、さらします。からい葱がよい人は、冷たい水に入れたあと、充分に水を切ってください。葱の臭いやからさをとりたい人は、布巾に包んで、流水でよくもみ洗いして水気を切ってください。

ちょっと一言

  • 電子レンジを使って一度にたくさんの量に火を通そうとすると、時間がかかりすぎて向いていません。私は10分以内で火が通ることを目安にしています。したがってこの「焼豚」も、200g〜250gを守ってください。 もやしの和え物の写真
  • 時間のあるときにこの焼豚を作っておけば、いろいろな料理の素材としても使えます。細かく刻んで炒飯に、せん切りにして和(あ)え物に、薄切りにして麺類の具に…まだまだ工夫すれば、役に立つことがあると思います。

≪組み合わせメニュー≫

    ◎白菜のスープ
    ◎豆腐の野菜あんかけ

【野口料理学園】

塩ひとつまみ


■味わう人生 (その8)

―野口料理学園―

 ・野口料理学園設立

昭和三十六年四月三十日父が他界し、両親を亡くしてしまった私は心のどこかに空間が出来たような日を過ごしました。父は小学校の校長時代、聖人君子という徒名のついていた程の人でしたから、きちっとした教育を私の子供二人にしてくれました。仕事が忙しくなり、東京に勉強に行く回数が多くなっても父の面倒見が良かったので本当に私は幸せに過ごすことが出来ました。許山病院に入院していた父が、見舞にきてくれた叔母に「野口が親切に見てくれるし、本当の娘に看護してもらえて、妻に先立たれたが、私は幸せだ」と話した事を後で聞き、少しでも親孝行出来たのだと喜びました。「お父さんは教育者として恥しくない人生を歩んだつもりだが、戦争による公職追放という犠牲もあったが、財力に恵まれず子供達に苦労を掛けてしまった。お前達は社会の指導者として生きてほしいが、努力して家計の豊かさにも恵まれて生きてほしい」と私と弟に話してくれました。色々と昔話もし、二十九日の朝は意識もはっきりして、とても元気でした。「今日は天皇誕生日なので死ぬわけにはいかない」等とも話し、驚く程元気でしたのに、夜の十一時半、弟が入浴したいからと家に帰り、まだたどり着かないうちに病状が急変しました。驚いて私はお医者様を呼びに行きました。十二時一分過ぎ、大音声と共にこと切れました。衰弱仕切ったこの病人の何所からこんな大きな声が出たのかと不思議に思われます。
父の自ら引導を渡すかの如き大音声は今も私の耳に残っており、父のような立派な死をお手本にしたいと考えています。
昭和三十七年の夏休みの夕ぐれ、家族四人で亡き父の思い出話しなどをしておりました時、私は父の遺言ともなった人生の歩み方を考え、是非料理学園を設立したいと思いつき、主人に話しました。良いと思う事は迷わずやって見ようという主義の主人は子供達と共に外に出て我が家の敷地の実測をしました。間口四間半、奥行七間で総二階建にすると六十三坪の建物が建てられることが解りました。ちょうど生徒の長沢様のお父様が日本軽石の社長をしておられ色々と相談にのって下さいました。私は予算の面でとてもこの広さの建築は無理と思い、今までの教室を住いとし、一階の教室だけにしようと考えました。ところが長沢社長は、料理学校はこれからきっと発展する仕事であるから鉄筋の総二階にし、更に三階が増築出来るようしっかりした基礎工事にしておくべきだとの御意見でした。予算的に不足分は御自分が保証人になって信用金庫から借り入れて下さるという程の御協力を得ました。借金などした事のない私でしたから色々と不安もありましたが、なにしろ長沢様にすべてを御まかせして建築する決心をしました。
地下へ一メートル半も掘り下げて、すてコンをし、しっかりした基礎作りを行い、鉄骨の何本も入った太い柱、生のコンクリートを流すためのミキサー車が来ての大がかりのものでした。当時生コンを流して建築する事は、まだ甲府では珍しく、近所の人が見学に来るという騒ぎでした。
昭和三十八年三月に竣工、四月一日には開校式並びに祝賀パーティーも盛大に行われました。師範台と三十六名入る講義室、六台の料理台、主人の意見による窓側の二間通しての大きな流しは特に素晴らしく、使い易いものであり、講義室と実習室の境の大きなハッチは私の夢の実現でした。二階には十畳、六畳の和室、八畳の応接間、子供達の勉強部屋、キッチン、バス、トイレも新しいスタイルのものを入れる事が出来、当時としては私共にとっては大きな希望を果す事が出来ました。
生徒の入学は急速に増加し、昼も夜も定員を上まわり、小さな古い教室も同時に使う程でした。
昭和四十二年十月には県知事認可校となり、ここに野口料理学園が誕生致しました。

≪ 野口富子『味わう人生』(昭和62年上梓)≫より


【私からのコメント】

そろそろ夏休みも終わり、という8月のある夕暮れ、曇っていたせいか、部屋の中が暗かったことをよく覚えています。母がどんな話をし、父がどう答えたか、それは記憶にありませんが、巻尺をもって親子4人で家の敷地を計って回ったことはちゃんと思い出せます。
母が「こうしたい」というときは、「こうする」という意思表示でした。それが叶えられたのは、父がすべて大きく受けとめていたからです。父は母の女学校時代の恩師でした。といっても、学校時代は本当(?)に、先生と生徒でした。それがなぜ…話せばとても長くなってしまいます。一言でいえば、両親の人生は「戦争」で狂ってしまったのです。二人ともフィアンセとは結婚できなくなっていました。南方の戦地からもどった父は、甲府が空襲にあったと聞き、教え子たちがどうなったか心配で女学校を訪ね、母校で教員をしていた母と再会、それから紆余曲折があって昭和23年1月に結婚しました。9人兄弟末っ子の父は、戦争中に亡くなった母親の代わりとして妹と弟の面倒をみなければならなかった母のために、母の実家に同居しました。それが現在の教室のある場所です。
私は両親の夫婦喧嘩をまったく知りません。口喧嘩さえ知りません。母は一度も父に逆らったことはありませんでした。母にとって父は、夫である前に「先生」だったのでしょう。父にとっても母は同じように、妻である前に「教え子」だった。母は父の大きな心の中で、自由自在に生きていたように思います。

新しい教室の建設は、トントン拍子でした。翌年の3月末には完成しました。その間、台風で屋根が飛んだあの8畳の和室一間に、4人で暮らしました。弟と私の勉強机があったので、4人分の布団がしけず、弟は布団をだした後の押入れに寝ました。彼の中学受験のときでした。いま思うと、ずいぶん不自由な思いをしましたが、みんな懐かしい思い出です。実は私にとっても重大事がありました。中学2年の2学期中間テスト中に高熱をだし、風邪かなと思ったら「盲腸炎」。手術して10日あまり入院したため、その間に基礎工事は済んでいたのでした。
私が中学3年から大学1年までの5年間、この教室はフル回転でした。日本はまさに高度成長期に向かっていました。料理「教室」という塾ではなく、料理「学園」という学校にすることで、家庭料理の大切さを広めようと志した母は、県に各種学校の認可を申請しました。この申請に対し、10名を超える審議員がみえ2、3個所の改築の後、10月に念願の公認校の認可を受けました。


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