塩 ひ と つ ま み

■象徴

ブラジルでのお話。主人の知り合いで、1955年アマゾン移民としてマナウスの近くのマナカプルーという植民地に入った方のお母さんが亡くなりました。92歳でした。日本で聞いていた話とちがって、受け入れ態勢はまるでととのっていませんでした。土地もおもいのほか痩せ地でした。文明文化から隔たった赤道直下の僻地で、さんざんな目にあいました。命からがら、着の身着のままリオデジャネイロに逃げるようにしてたどり着きました。そこでも仕事がみつからず、さらにサンパウロまで足をのばし、いくつかの偶然に助けられてなんとか生きのびることができました。

数十年後、苦労の連続だったそのお母さんが亡くなって、遺品の中から、あるものが出てきました。「すり鉢」と「すりこぎ」です。知り合いは首をひねりました。なぜこんなものがあるのだろう。どうやってこんな荷物になるものを持ってこれたのか。アマゾンから退耕するゴタゴタのなかで、重いうえに割れやすく、収まりが悪い形のものをなぜわざわざ選んだのか。そもそも、そうまでして持ち出したかったものが、なぜ「すり鉢」と「すりこぎ」なのだろう。知り合いに思い当たるふしはありませんでした。そこで主人に問うてきたというわけです。

当事者がわからないものを、部外者にわかるはずはありません。
「嫁入り道具ではなかったんですか」(主人)
「いや、聞いたことはない」(知人)
「その道具を使った得意料理があった?」(主人)
「うーん、思いつかない」(知人)
「じゃ、なにか特別の思い入れのある品だったんでしょうかね」(主人)
「これもわからない」(知人)
結論はでなかったようです。

それを聞いて、わたし流に二つ考えてみました。
(1) じつは、知り合いの知らないところでお母さんは「すり鉢」と「すりこぎ」を使って料理をしていた。たとえば、お父さん(すでに故人)の好物をそれで作っていた。べつに隠れて料理していたわけではないにしても、案外男の人というのは気が付かない、目にふれないという可能性があります。

(2) 「すり鉢」と「すりこぎ」は、ごまやくるみなど材料をすりつぶすのに用いる日本料理独特の調理器具です。これを使った料理といえば、ごま和え、白和え、山かけごはんのとろろなど、ほかに枝豆や豆腐をつぶしたりしていろいろな食材をまぜます。忘れてならないのは味噌汁です。自家製の味噌を味噌汁に入れる前に、中の大豆をつぶしてから使います。毎日いただくものです。90歳代のお母さんといえば大正生まれ、おそらく子供の時分からずっと経験してきたことで、結婚して40歳でブラジルに渡る直前まで愛用していたにちがいありません。昔の人にとっては必需品です。ブラジルに持っていったのも当然のことです。

ブラジルのアマゾンといっても一体どんなところか、どんな食べ物があるのか、どういう生活ができるのか、お母さんには想像もつかなかったでしょう。孤立無援、めまいがするほどの暑さと湿気のジャングルで、生死をさまようぎりぎりの困窮生活を強いられたことは想像に難くありません。いいえ、私たちの想像をはるかに超えた凄絶な人間の営みがあったことでしょう。アマゾンの奥地に「すり鉢」と「すりこぎ」の本領を発揮できる食材も、またそういう料理をしようなどという経済的余裕も精神的ゆとりもあろうはずがありません。自分が料理し食べたいというだけではありません。家族の者に作ってあげたいという強い気持ちがあったと思います。いつの日か、そんな暮らしができることを夢見て、手放せなかったのではないでしょうか。

アマゾンを脱してからも苦しい状況は続いたでしょう。逆境にあっても、いえ、逆境にあればあるほど、いつかはという思いで、夢と希望をつなぐ象徴としてそばにおいておきたかったのではないでしょうか。日本料理の象徴でもある「すり鉢」と「すりこぎ」は、お母さんにとって何物にも代えがたい大きな支えになったと思われます。数え切れないほど何度も何度も手にとって涙したでしょう。そのつど日本にたいするたまらない郷愁に襲われたでしょう。きてしまった恨み、つらみ、そして後悔も。お母さんが大事にしてきた「すり鉢」と「すりこぎ」には、ブラジルですごした半世紀以上にわたる本人にしかわからない諸々のものがぎっしりつまっていそうです。私がお母さんなら、それらを丹念にすりつぶして子供や孫と一緒に味わおうとしたことでしょう。すべて想像の域をでませんが、胸がつぶれそうでなりません……。

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【野口料理学園】

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