今週のレシピ

◇忘年会に、家族や友人と楽しく、鍋料理はいかがですか。

● 常夜鍋    446kcal.  塩分3.0g (タレを全部含む)

常夜鍋1の写真 [材料]  -6人分-

・豚バラ肉400g
・白菜6枚
・ほうれん草1束
・春菊1/2束
・日本葱1本
・もやし200g
◎きのこ類適宜
  生椎茸
  しめじ
  舞茸(まいたけ)
  えのき茸
    …など
・豆腐1丁(300g)
・くずきり1袋
・鳴門(なると)1本
◎A
  日本酒1/2カップ
  水5カップ
◎B
  出し汁1/2カップ
  醤油1/2カップ
  酢1/2カップ
  煮切りみりん大さじ2
◎薬味
  もみじおろし
  さらし葱
  ゆずの皮

  [作り方]
◎具の準備

  1. 豚のバラ肉…薄切りを7〜8a長さに切る。
    白菜・ほうれん草…茹(ゆ)でて、ほうれん草を芯にして白菜で巻き、3a位に切る。
    春菊は、長さを2つに切る。
    日本葱は、斜めの輪切りにする。
    もやしは、軽く茹でる。
    きのこ類は、食べやすい大きさに切って盛り付ける。
    豆腐は、3〜4a角に切る。
    くずきりは、茹でる。
    鳴門は、斜めの輪切りにする。
  2. 1を大皿に美しく盛り付ける。

◎煮汁と薬味の用意 常夜鍋2の写真

  1. 土鍋にAを合わせる。
  2. Bを合わせて、ポン酢風味のタレを作る。
  3. もみじおろし、さらし葱、ゆずの皮を薬味として用意する。

◎食べ方

  1. 煮汁の入った土鍋を火にかける。
  2. 沸騰したら、具を加えて煮る。
  3. 各自の器にタレを入れ、薬味を加え、煮えた具をつけて食べる。


ポイントはここ


ちょっと一言


≪組み合わせメニュー≫

    ◎さらし玉葱の二杯酢
    ◎ごぼうの金平煮

【野口料理学園】
塩ひとつまみ

■味わう人生 (その9)

―テレビ放送―

  NHKで料理テレビ番組が始まって、画面を通して料理を学ぶ事が盛んになり、茶の間の人気番組となりましました。山梨にも竜王町に山梨放送のテレビ局が建設され、ここから放送が行なわれる事になりました。岡島、河西、飯島三先生と私の四人で毎週金曜日の十二時から十五分間担当しました。前島英三郎(現参議院議員八代英太氏)の司会により放送されました。初めての放送の時には全く緊張し、手は震え、ドーラン化粧をした顔は引きつり、言葉もスムーズに出てこない始末でした。テレビを見た生徒達から「先生お通夜のような顔でしたよ。」などと批評された程でした。回を重ねるに従い馴れては来ましたが、十二時からの放送なのに朝八時半にはスタジオに入り、ビデオをとることも出来ない時代でしたから、何度か練習してから本番で、なかなか大変な事でした。放送の前夜は教室の師範台の上に材料を整え、台本片手に包丁を動かし、台詞を覚えたものです。主人は陸上競技に使う得意のストップウォッチを持って一コマ一コマきちんと時間が合うように計って協力してくれました。これで本番大丈夫という程練習しても放送の瞬間を考えて良く眠れない事さえありました。
しかし私が一番早く放送に馴れ、モニターから上手になったと批評され、自分自身も笑顔をもってゆとりある手順で放送が出来るようになれましたのも主人の大きな陰の協力の賜物と感謝しております。
三十八年一月には娘がピアノ伴奏をして息子と三人でロシア民謡のトロイカを歌うというテレビ放送にも出ました。陰の力になる事は好んでも表面にたつ事の嫌いな主人はこの時は不機嫌でした。
三十九年七月には甲府市でアメリカからの二十名の留学生を受け入れる事になり市内の各家庭で一名ずつあずかる事になりました。私共では二十名のリーダーであるグレイス・イングハムという学校の先生をおあずかりする事になりました。私とちょうど同年輩の女性でした。五十日間私共の家の十畳の和室を彼女の部屋と定め、全く家族として日本式の生活を共にしました。留学生は週に二回は私の学園に集まり、リーダーを中心としてのコミュニケーションを計っていました。又茶の湯を学ぶ風景や、お寿司の店魚茂のカウンターで、浴衣姿でお寿司を食べるシーンなどテレビ放送をしました。この時のYBSのディレクターを始めカメラマンも、又魚茂の若主人(今は故人となってしまいましたが)も皆主人の一高時代の教え子でしたので、何かと心が通じ、本当にすべてが心暖まる雰囲気の内に出来、主人の力の大きさを感じました。

≪ 野口富子『味わう人生』(昭和62年上梓)≫より


【私からのコメント】

教室の園長室の机の引出しに、1個の壊れたストップウォッチが今も入っています。父が愛用していたものです。父は陸上トラック競技の審判員の資格を持っていましたので、ストップウォッチの扱いは得意中の得意でした。
「生放送」だった時代のテレビ番組は、まさに1分1秒を争うもの。このストップウォッチを片手に、父はよく母の料理番組の練習を手伝っていました。教室の師範台をテレビ局の机に見立て、母が中央に立ち、両脇にベテランの助手がつきます。母の台詞に合わせて、助手が材料や道具を自分の手がうつらないように出していくのです。秒単位の動作を積み重ねて、15分の番組にします。「だいたいこの位」は、通用しない仕事でした。4人の料理の先生で担当していましたので、月1回の出演です。台本片手の練習は一度や二度ではなく、まだ中学生だった私は遠くからしか見ていませんでしたが、たいへんな仕事だなと感じていました。
明日が初めての本番という夜、たいていのことには動じないさすがの母もなかなか寝付けず、ウトウトしたら台詞を忘れた夢を見た…などと散々でした。
父や助手たちの協力のおかげで、母は回を重ねるごとに生放送に慣れ、一般の番組モニターたちからいつも良い評価を得ていました。スタジオから生放送のこの番組は、前半15分が料理、後半は女性のための教養講座だったと記憶しています。ある日、産婦人科の医師が出演。男女の産み分けについてお話したあと、番組終了近くになって、「男の子が欲しいときは青い薬、女の子は赤い薬を飲めばいいという…」。ここで番組が終了したから、さあ大変。直後から、放送局の電話に問い合わせが殺到しました。「そんなスゴイ薬があるなら、ぜひ教えて欲しい」。実はくだんの医師は、「…というような薬が発明されたらいいですね」というつもりが、時間がきてプツッ。いかにもそういう薬があると、とられてしまったのでした。生放送ゆえのハプニング、と母がよく話していました。
これ以後、ビデオ撮りで番組が製作されるようになったとき、生放送に出演した経験がどんなに役立ったことでしょう。「明日はビデオ撮りなのに、こんなにノンビリしていいのかしらネ」が、母の口癖になりました。ビデオ撮りでの番組作りは、前日まで練習の必要はまったくなくなりました。当日にプロデューサーと打ち合わせ、番組をいくつかに分割してビデオ撮りをし、あとでどのようにでも編集できるのです。やり直しがきくと思うと緊張感がうすれ、却って失敗してしまいやすい。でも母は、ほとんどいつも1回で決めていました。時には、カメラマンやアナウンサーのほうが失敗して、撮り直しになることがあったりしました。
ある商社の依頼で、毎日の惣菜の作り方をケーブルテレビで放送し、その食材を販売するという企画を手伝ったことがありました。3ヶ月間毎日ちがう料理を、5分の番組にして放送するのです。ビデオ撮りは、1週間まとめてでした。スタジオはわが家のシステムキッチン。教室の調理台には1週間分、つまり7種類の料理の材料を3倍量用意し、助手が1回分は材料のまま、1回分は調理中の形、もう1回分は仕上げて盛り付けておいて撮影にのぞみます。たった5分の番組でしたが、1回分が仕上がるまでに1時間から1時間半はかかりました。朝8時に開始、7本撮り終えるといつも午後の6時。材料の準備だけでなく、2階の十畳の和室にエプロン7枚と料理に合った洋服・着物・チャイナドレスなどを準備しててんてこ舞い、3ヶ月で終了と始めから知っての仕事でしたから何とかやり通せたと思えます。
この経験は、生放送の緊張感を知らない私にも、充分すぎるほどテレビ放送の大変さを教えてくれました。ときどき私にもテレビ出演の依頼がありますが、二つ返事で引き受けています。あまりドキドキせず、生放送でもビデオ撮りでも平気です。でも、あまり慣れてしまうのも考えもの。少しはドキドキして緊張することも大切かな、と思うこの頃です。


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